OSAKA
日本を二つ割ったときの西に住んでいて、土日祝日勤務も当たり前で遠征が難しい私にとって、アカシックライブといえば大阪だった。
いつも通り、と意気込んでいくつもの鉄道をはしごする。
慣れたはずの御堂筋の喧騒も、なんだか居心地が悪かった。
異国の街を楽しむ人、休日のひと時を満喫する人、何が何でも居酒屋に引き込んでやろうとするキャッチ、なにがなんだかわからない道頓堀、大阪ミナミはいつも人々のパワーでぎゅうぎゅう詰めだ。
その雰囲気に私だけがまるで馴染めなくて、そういう違和感から、今日の非日常感を思い出してしまう。
奇しくも、最後にミナミに来たのは「小ぬか雨降る御堂筋」ライブの日。
あのとき、私たちは何も知らなかった。彼らの結末がもう間近に迫っていることも、これから襲いかかる未来への不安も。
ただひたすら、大好きなアカシックが持ち曲63曲を2日でやりきる無謀さについていくことが嬉しかった。
あの日、秋には円盤を出したいねなんて笑いながら話す4人から異変を感じ取れた人はいたんだろうか。私には無理だった。
人も店もごった返す心斎橋筋商店街を抜け出し、治安の決して良くなさそうな狭い街を歩いた。競馬場とライブハウスが同じビルにまとめまっているが、これこそ何でもありな大阪っぽい。
中に入ると、ファンの様子がいつもと違う。
初めて来たのという声、これがお仕舞いだなんて嫌だという嘆き、肩と肩がすぐぶつかる距離で、皆がそれぞれの「アカシック推し歴」を話している。
ぼっちなので、聴覚の性能を一時的に悪くしようとしても多少のお話は否が応でも聞こえてしまう。
まだ聞きたくないのよ、こういう湿っぽい話。嫌だ嫌だ嫌だ。実感したくない。
往生際の悪い自分を呼び起こさないように、努めて冷静に開演を待っていた。
つもりだった。
けたたましいSEが鳴り響く。
「終電」、「ギャングスタ」、アカシックの歌をところどころに散りばめて、閃光のように音が飛び散る。
集大成でありながら、お涙頂戴な雰囲気はどこにもない。むしろ、かかってきなよと煽る気配さえある。何が起こるかわからない空気が張り詰めて、動悸が激しくなる。
やられた。開演直後、心の第一声。
「地獄に手を振って」始まりは全く想像してなかった。なんとなくだけど、とんでもなく明るくかっ飛ばす気がしていた。
心にできた油断の隙から、康二郎の優しいコーラスがするすると入ってくる。理姫さんの甘くて鋭さのある声を潰さない、優しくてそっと包み込むような声。
あ、これ無理。康二郎居なきゃ無理だ私。
「優しい絵本の中で」と言うように、アカシックの世界は美しい彩りで溢れている。感傷的な気持ちだって、やさぐれた生活だって、理姫さんはいとも簡単に艶やかに染め上げてしまう。
今日だって、絵画の中から抜け出してきたような絢爛なドレスを身にまとって、紅いリップがステージライトによく映えている。
私たちが、鏡を見る度に憧れる女の子がそのまま目の前にいるのだ。そんな理姫さんだから、刹那に私たちの心を攫いにくる。
この世界を、壊さずに守ることができる人。優しく支えながら、寄り添いながら、自分の色を足すことができる人。
そんな人たちが、そう頻繁に現れるはずなんてないじゃない。
そうか、そういう作戦か。
康二郎の優しさがひしひしと感じられる曲で幕を開けて私たちを生殺しにする気か。
狡い。無理。どうやってこの解散を受け入れろって言うのさ。
たった一曲なのに、もう頭の中が色んな思いで飽和状態。
そんなパンク寸前の脳みそに、果たし状を突きつけてくる「エリザベスロマン」。
あるとき以降の理姫さんの作品には、生きていく強かさが見える。
かつての愛に依存して心許ない雰囲気から、いつのまにか孤独や絶望感を許さない眼差しが強くなる。
その眼差しの奥に、私たちファンを巻き込んで、一緒に生きていこうよ、やってらんないときもあるけど楽しいよ何だかんだ、と言わんばかりの潔さが感じられる。
この曲は、そういう強かを余すことなく表しながら、気品だったり、余裕だったり、女の矜持だったりを全部音で五線譜の上に落とし込んでいる。
まさに、作詞理姫、作曲奥脇達也の真骨頂。
かと思えば、同じように生きていることの幸せを噛み締めながらも、その裏で一緒に幸せになることは叶えてくれなかった男の影がちらつく曲、「Mr. FANCY」が続く。
理姫さんの根底にあるのはいつも、女として幸せになりたいじゃんそれの何が悪いの、という飾り気のない本心。
こういうナマの気持ちをさらけ出してくれるから、私たちが日々苦悩する叫びを言い当ててくれるから、でも生きてたいし生きててほしいし、と歌う言葉にも温度が込み上げてくる。
康二郎のドラムが、歌詞の感情の抑揚に重なるようにとても熱くなる。目配せをするバンビにも、鬼気迫るオーラが見える。鍵盤の音が、衝突の衝撃を和らげるようにそっと添えられる。
これがアカシックだ。
私が大好きで、もっともっと皆に知ってほしかったアカシックだ。
とりあえず初日大阪はこの3曲で記憶のストレージがほとんどとられた。
後は、ずーっと曲の持つパワーに圧倒され続けた気がする。だから、ライブを見てメンバー本人の様子を見たり全体を観察したりできなくて、それよりは、曲の持つ力を噛み締めながら聞くのに精一杯だった。
「オレンジに塩コショウ」、「スーパーサマーライン」と変化球打ってくるのがこれまたアカシックらしさ。
なんかもう、めちゃくちゃ本人たちが楽しそうだし、今10月なのに余裕で夏の危なっかしさ伝わってくるし。
ねえ、本当に解散するの?って一瞬ここで怯む。
怯んだ隙に、「憂い切る身」。
骨とか神経にまで音が入り込むような気がして、泣きながら、感電したような錯覚。
ふと見渡せば、周りの色んな人が涙を流していて、この曲の持つ意味が今私たちにのし掛かっていることを痛感。
「幸せだったこと 自慢したい最期は」
愛しき実話。
解散とラストライブツアーが発表されたときに思ったけど、アカシックはもしかしたら2019年10月26日に解散することが決まってたのかもしれない。
どっかの神様の悪戯で。
この曲だって、そんな動かせない結末のために用意された伏線なのかもしれない。
だって、それくらい綺麗なんだもの。
悔いを見せずに笑い、軽やかにドラムを叩き続ける康二郎の眼。
表に出ないようで、実はとてもよく出ているバンビの熱。
コーラスしない曲でも歌い続けて、バンドを愛していることがバレバレの達也さん。
目線で、声の張り上げ方で、全ての感情を乗せてくる理姫さん。
この曲も、この4人も、全ては最後の日のために設えたような気がする。
私たちは、あと20日間しか残されていない時間をどうやって過ごすか、ただ考えることしかできない。
時限爆弾みたいだな。曲に飲み込まれる陰で、そんなことをぼんやり思ってた。
泥を啜るような陰湿さを醸す「私」、幻想的な月明かりみたいな儚さが理姫さんに宿る「you&i」、とんでもない高低差でライブは進む。
いつも思うけどアカシックのライブに退屈とか飽きとか存在しない。
何故か潤滑に展開する奥脇達也のお料理教室(アサリの味噌汁編)で、観衆にこれはなんの集まりだったのかを忘れさせ、錯乱させた直後にちぐはぐのテンションで告げるタイトルコール、「幸せじゃないから死ねない」。始終理姫さんが可愛い。
以降、「さめざめ」まで、メンバー全員箍が外れたように曲の世界に没入する。こんなに熱い「さめざめ」は聞いたことあったっけ。
もうお料理教室の先生はどこにもいない。多分鰹出汁取るために舞台裏に帰った。
康二郎のドラムは、力強くて熱量があるときも軽快で心地よい。曲の速度や空気を損ねない。気づけば高鳴る心臓のように、歌詞と丁寧に足並みを揃える。
こういう曲が畳み掛けてくるときに強くそれを実感する。
ここからは、本当にもう、湿っぽいこっちが馬鹿みたいにメンバーが楽しんでる。
なのに、演奏に寸分の狂いもなくて、ライブハウスはお祭り騒ぎなのに私たちはアカシックの掌のうえで転がされている。
どうしてここまでできる技術があって、悲しいお知らせを受け入れなくちゃならないんだろうな。思い出している今のほうが憂鬱。
照れながら踊る「香港ママ」の理姫さんが、あまりにも愛らしい。
もっともっと照れてほしくて、煽りたくて年甲斐もなく全力で踊る。
「CGギャル」のバンビさんは、わかっていながらもとんでもないオーラを放つから痺れる。あのマネキンみたいな顔でこんな狂気が似合うのはもはや脅威。悲鳴が上がるのも当然。
悔しい。悔しくて仕方ない。けど、楽しい。
アカシックのライブっていっつもこうなの。
毎日のやってらんないこととか、うまく可愛くなれない自分とか、色んなこと抱えて持っていっても全部蹴とばしてくれるの。
いつまでもずっと、こんなライブに通いたいよ。
「秘密のデート」の狂喜乱舞は相変わらず麻薬。
康二郎の掛け声は、むしろコンサバティブの音源から入っていたんじゃないかってくらい自然。彼は、途中で入ったはずなのに、初めから求められていた人だったのかな。これ自分で言って泣きそう。
これまでの狂喜が、「マイラグジュアリーナイト」で背筋の通る強さに変わる。
「ツイニーヨコハマ」のヒヤリとする危なさが、会場の熱と溶けて混じっていくようで気持ちいい。とてもライブ映えする曲。
タイムマシンみたい。
アカシックがずっと表現し続けてくれた世界を、一度に丸ごと見せてもらえるような。
アカシックの教科書を書くならこの曲がいるだろ!という曲の目白押し。
楽しいのに、そんなことで解散の文字が過る。やだやだやだ。
楽しい気持ちの裏で育つ切なさに気づいたそのとき、「アルカイックセンチメント」。そして、「愛×Happy×クレイジー」。
「アルカイックセンチメント」はこっそりバンビさんもコーラスに混じる。
私はそれが好き。皆で作ってるよ、という態度が見える気がする。
理姫さんが目立ってしまうバンドだけど、4人の「個」が阻害し合わずに上手に中和するのがアカシックの音楽。それが大好き。
「愛×Happy×クレイジー」は、私がライブに通い始めてから歌い始めた曲。
初めは、音源の演奏の豪華さに戸惑って、ちょっと他の曲と違う色だなと思っていた。なのに、だんだんとアカシックのライブの中で馴染んでいって、アカシックらしくなっていって、いつの間にか無くてはならないピースになっていた。
ぼっちに引け目もあったけど、アカシックが大好きすぎてライブに通い始めた私の年輪がこの曲に刻まれてるんだなって今更わかった。
「好き嫌い」。
「年貢を廃止して地価の3%を現金で納める」政策である例のフレーズ、誰がここまでライブのフィナーレに合うロックな曲に化けると思っただろう。
たった5年で彼らはとんでもない進化をしたんだろうな。
「LSD」。
「あと2秒でなくなっちゃうよ」
理姫さん、ねぇ。いつから知ってたの?お別れのこと。どうしてさよならの準備が整っているの?
偶然なんて嫌い。明るい曲を真っ直ぐに聴けなかった。
ステージから順番にメンバーが捌ける。
理姫さんが、幕から顔を出して一言。
「先にシャワー浴びてくるね」
そう言って彼女は消えていった。
主人公なんだな、と思った。
生き方も、些細な言葉遣いも、ステージでの立ち振る舞いも、何もかも。
たった一言にどきりとして、心を掴まれた。
長いアンコールの掛け声が止んだ。
即座にめまいがした。
「愛しき実話」
解散を告げるよりも先にできた未発表作品、それになぜこの名がついたか。
因果なのか。偶然なのか。
主人公である理姫さんに科せられた使命なのか。
注ぎ込まれるメロディが、私の大好きなアカシックらしさであふれていた。
理姫さんが日々を大切にしようとする心がけが、ところどころ聞き取れる歌詞の断片から伝わってきた。
大好きな人たちが大好きな歌を歌う。
たったそれだけで、私の気持ちには名前の違う感情がいくつもひしめき合う。
演奏の直後、康二郎が普段以上に笑う。
「なんかすっごい楽しくてさ」
どうして、今それを言うのだろう。なんて罪な人なんだろう。
別れ話の日くらいは、嫌われる男であってほしい。なのに、この人は相変わらず憎めない男なのだ。音楽を楽しむことを忘れない、真摯な人なのだ。ズルイ男。
ギターはその涙ぐましい空気をかき切ろうとする。
「終電」。鋭い音の襲撃も虚しく、涙はより量を増してしまう。
ああ、アカシックの歴史は、私が見てきたよりもずっとずっと重くて、ずっとずっと尊くて、どこを切り取っても密度が高い年月なんだ。
走馬灯のように、なんてよくいうけど、本当にこのときは、全ての曲を聴いたときの全てのときめきが同時に胸に再来したような気分に酔った。
泣いては酔って、体調が悪いんじゃないか私と勘違いするくらいには目の前がグラグラしていた。
こんなにも人のことを泣かせておいて、あっけらかんとアカシックは宣言する。
「最高潮だと伝えたい、サイノロジック」
そこにいたのは、いつものアカシックだった。もうすぐ、「いつもの」とは言えなくなるけど。
帰りの電車の中、私は何を考えたら良いのかわからなくなった。
lovelydayswithakasick.hateblo.jp
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