ITOSHIKI JITSUWA
愛しているということは思うだけじゃなく公言するまでを含むのかな、と最近は感じている。
だって無言で、真顔のまんまで、「ずっと好きだったのに」って言われても、ねぇ。
ごちゃごちゃ言ったけど、もっと単純。
可愛い連中のトレーラー聴いていたら、もうなんか好きだから私の見栄とかどうでもいいから好きだなってありがとうって伝えたくなっただけ。
成仏はしていないんだけど、いまだに。
アカシックのこと本当に本当に大好きだなと改めて気づかされるタイミングが何回も何回も襲来するツアーでした。
もともと、どのライブに参加するとかあんまり言わずに影武者のような存在になりたかったのに。
気づけばもっと愛が拡散すればいいのにと思ってついつい全通したことを口にしたり。ああ恥ずかしい。
(あ、だから可愛い連中のライブはいつどこに何回いるかわかんないよ!私は姿をくらます。)
そんな私の、私事すぎる日記です。
ライブレポというほどの完成度もまるでないし、細やかなメンバーの表情や所作を洞察し言葉に変換する能力は圧倒的に不足しているし。
ただただ、好きであることに確信を示すためだけに、この記事を残しておきます。
理姫さん、達也さん、バンビさん、そして、康二郎に、Hachiに。
会えたことに感謝と敬意を表して。
月野にこ
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YOKOHAMA
新横浜駅の看板、中華街の異国情緒、山下公園の花盛りの薔薇園、赤レンガ倉庫が臨める海。
その横浜の景色につきまとうぼんやりした曇り空は、私の煮え切らない気持ちみたいだ。
女の情念も、掻き消せない愛も、整然としない醜悪な感情もそれでも生きていきたいと前を向く感情も、全部を理姫さんはこの横浜の土地から書き連ねた。
聴いていないのに、歩く度に横浜の景色が、「ツイニーヨコハマ、」「you&i」、「香港ママ」などのアカシックの曲にリンクする。
実感を抱いたり、時々その実感を失ったり、自分の心が二転三転する。
誰も知り合いのいない街で、一人静かに動揺していた。
できる限り何の関係もないツイートを見たりして、今の気持ちを自覚しないように現実を回避していた。
はずだったのに。
ベイホールに足を踏み入れてステージを見たら、悟らずにはいられなくなった。
「ITOSHIKI JITSUWA」
赤やピンクの花で作られた絢爛なフラワーアートが、アカシックの解散を突きつける。
ああ、完成しちゃった。
今日はお仕舞いの日なんだ。
自覚した途端、呼吸が乱れてしまうような不安に陥った。開演しなければいいと思うくらいに。
この待ち時間をとても長く感じていたのに、改めて思い出そうとするとほとんど記憶がない。
終焉を告げるSEが始まる。
巧妙な仕掛けのように、今までの曲が織り込まれるSE。
「終電」が始まるかとフェイントをかけて、「ギャングスタ」を差し込んでくる。
3人のときも、5人のときも、そして4人のときも、アカシックの曲はいつだって私たちの心臓に直接届くような距離にいてくれた。
そんなことをふと感じながら、大好きな「エンジェルシンク」がSEの奥の方で木霊するのを感じる。
次々と襲来する曲に泣かされて、ちょっと待ってこれまだSEだよねと疑いたくなる。
ざらっとした達也さんのギターカッティングでライブが始まってしまう。
天井を支える役割よりもステージの光景を阻害する役割の方を発揮しすぎた2本の柱のせいで、万全の視界ではなかったけれど、4人の佇まいが凛としていることはハッキリと認識した。
「地獄に手を振って」が会場を飲み込むあの瞬間、毎回理姫さんの声の中に込められた気持ちを窺い知りたくなる。
絶対わかりっこないんだけど。
大阪は、魅せるという言葉が似合った。
曲の美しさも温度も、一音一音丁寧に伝わってきた。
東京は、少し上ずるような、まさに理姫さんが事前のSNSで「千切れたい」と言った通り、勢いが勝る声だった。
横浜は、その東京よりも更に感情が前に前に出ているような気がした。
よく、感情を音に乗せて、なんて言うけれど、今日の理姫さんはもしかしたら逆なんじゃないか。
感情が先に圧を持って表に出てきて、そこに声とか音程が食らいつくような、そんな逆転現象。
バランスを崩しそうで崩さない極限の雰囲気の中で、理姫さんは声を絞り出す。
全身全霊の感情を宿す曲に憑依するように、メンバーが各々の楽器を力強く弾く。
康二郎を見る度に、鮮やかな色の花々が彼を取り囲む。
自分たちで整えた神聖な空間を自分たちでかき乱すように、「エリザベスロマン」「Mr.FANCY」がライブハウスを乗っ取る。
圧で歌っている気がした理姫さんだったけど、やっぱりメンバー全員が今日は前のめりな気がする。
達也さんも、バンビさんも、そしてもちろん康二郎も理姫さんも、振り絞ってる。
届くはずのない客席にまでステージの4人の温度がじわりと迫る。
神妙な面持ちだったり、羽目を外したような笑顔だったり、きっと今日は全てに意味があるように見えてしまう。
「エリザベス」の途中で理姫さんが、康二郎を煽る。
「最後なのにそんなので良いの?」
あ、言った。
理姫さん、東京では最後って言いたくなさそうだったのに。
こういう些細なところで、大阪とも東京とも更に違う、本当の本当のお仕舞いの日なんだということを感じる。
元気いっぱいの康二郎の早口なご挨拶すら、面白くって仕方ないのに悲しくって仕方ない。
その悲しさを胸に詰め込んだまま聴く「Mr.FANCY」の歌詞は鋭利すぎる。
人生、人生、素敵だ
君がどっかに生きている
康二郎への手紙みたいな歌詞になるとはな。
「オレンジに塩コショウ」「ツイニーヨコハマ」と、アカシックの良さがこれでもかと詰め込まれた流れが続く。
炎天下も、パーカー着た7月も、理姫さんは同じ海の景色から全く違う世界を切り取ることができる人。
そしてアカシックのメンバーは、その歌詞の世界をするっと綺麗に再現できる人たち。
「わかりやすい」ことをすることが、売れることには近道なのかもしれない。
けれど、アカシックは遠回りばっかりする。
しんみりしたり、はっちゃけたり、かわいくなったり、かったるくなったり。
私たちの心を振り回すように、手あたり次第試してくる。
けど、一筋縄ではいかないアカシックの曲のラインナップは、くだらないことでも一喜一憂する私たちの下手くそな生き方みたいだ。
掴みどころのないふり幅こそ、アカシックらしさでありながら、私たちそのものでもある。
ヒヤリと頬を横切る「ツイニーヨコハマ」の演奏を聴きながら、そんなことを少しだけ思った。
理姫さんは相変わらずお茶目な表情を滲ませる。
「一緒に歌って踊るのも今日が最後」と知っているから、無意識に人差し指が震える。
MCの時間は毎回とっても楽しいんだけど、平常心を無理やり取り戻そうとしているしょんぼりした自分にも気づいてしまうから、なんだか切なかった。
台風のフー子が横浜を助けてくれたね、って話。私は全45巻読んだ人だからフー子の話知ってるし大好きだし頷きまくっていたけど、あれはどこまでティーンに伝わっていたんだろうか。
しんみりしたくないし、させたくない。あれも、アカシックのメンバーの優しさなんだろうな。
「憂い切る身」は、そんな解散ムードと噛み合わないMCをぶった切る。
「愛しき実話」と同じくらい、この曲は今のアカシックのためにある曲だと再確認した。
私は、たった一つの後悔もなく生きているか。
私は、たった一つの後悔もなくアカシックを好きでいるのか。
実は、ライブ前日にいてもたってもいられなくなって、自問自答のような文章を書いた。
アカシックを好きになって、私の人生が救われたこと。
そのことへの感謝を全て丸裸にしてから、解散ライブに臨みたいと覚悟した。だから、拙いけれど書いた。
この曲の真摯さを全て体現したような鍵盤の音が響き渡る。
足場がぐらつくほどの今日一番の圧に飲み込まれながら、その文章を思い出した。
やっぱりアカシックを好きになったことに悔いなんか見当たらないなと、泣きながら笑ってしまった。
康二郎のドラムの力強さに心臓が揺らいだ。
あと、バンビさんが直前のInstagramで一番好きな曲に「憂い切る身」を挙げていたので、ついバンビさんをたくさん覗き込んだ。
重たい前髪の中に潜む目のギラツキに、つい釘付けになった。
こうやって精神状態が危うくなってきたタイミングで、ツアー初登場の「邪魔」。
ズルい人たちだ最後まで。今日の感情先行型の4人にハマり過ぎる選曲。
達也さんはよくあんなにも感情をおおっぴろげにしながら演奏できるもんだなと毎回感嘆する。
「you&i」はいかんせんMVの景色がフラッシュバックする。
あのMVと季節も近いせいだろうか。
浮遊感と気怠さと華奢な可憐さを一気に出せる理姫さんの声と抑揚が好きだし、曲の素直さに反比例する達也さんのギターの歪みが好きだし、小気味いいテンポを刻むバンビさんのベースと康二郎のドラムの掛け合いも好き。
うっとりしたいのに、お仕舞いの気配がそう易々と私を解放してくれない。
だってこんなに完成度の高い曲の応酬が続いているのに今日が最後だなんて。納得できない、してやんない。
怒濤の名曲ラッシュを乗り越えて、何を話し出すのかと思いきや。
理姫さんの口火を切ったのは、相当に憤慨の気持ちを含んだ一言。
「バチェラー…!!!」
山梨のぶどう農家の話に振り回される山梨の狂犬、奥脇達也。
視聴している人もしていない人も強引に巻き込むあまりの熱弁具合に、フー子とは違って全力で笑ってしまった。
ちなみに帰ってからも #友永構文 とかも読んでる。ぶどう農家という言葉に嫌悪を抱く日が来るなんて思っていなかった。
そんな普段通りのように見える理姫さんが、「横浜で全てを歌ってきた」と宣言する。
その話からの「幸せじゃないから死ねない」。
恋愛ドキュメンタリーにあれこれ不満を抱えて指原さんのツイートにいいねする理姫さんと、神経を研ぎ澄ませてバラードを歌い始める理姫さんの間に、びっくりするほど境目がない。
他の人だったら、「そのMCでこの曲はおかしいだろ、やり直し」となるはずが、「ボーカル 理姫」という主人公がステージに立てばこの波乱万丈な進行も何一つおかしくなくなってしまう。
理姫さんがガールズバーから抜け出して歌っても、数年を経てニコニコと跳ねながら歌っても、アカシックの曲は理姫さんのもの。
どんな色でこの曲に色を塗るのか決めるのは理姫さん。
だから、理姫さんがお仕舞いと決めたならそれは本当にお仕舞い。
そんな風に通告されたような気分になった。
理姫さんは存在に説得力のある人なんだ。
コンサバのイントロで始まったのに間奏がカップリング版に聞こえたんだけど、あっているかしら。そうだとしたら、アカシックの歴史を一曲で示すアレンジとして最高。
お仕舞いに覚悟を決めろよ、そう言われたような気分を消化しきれていないのに、間髪を入れずに「エロティシズム」が始まる。
「あなたを好きになって 本当に良かった」
「地獄だろうとついてきて」
今、こういうこと言われるとね。あっけなく心臓握りつぶされるよ。
こういう重々しいバラードのアカシックが大好きで、全力で殴るように畳みかけてくる演奏とか(なのにうるさくなくて一番良いバランスを保ち続ける3人の演奏技術の精巧さにも驚く)、終わらない気満々のアウトロとか、理姫さんの途絶えてしまいそうな息遣いとか、全部が集合体になって襲い掛かってくるというか、4人じゃないとできない感情の表現というか、何にせよ泣くしかないなって。
この壮絶な曲を横浜に、お仕舞いの日に残してくれていたのって、私たちファンの心を見透かされているみたい。
誰を見て良いのかわかんないくらい4人全員が最終形態の本気。一人ひとりを見る目とその目からこぼれる涙を拭う手が欲しかった。
隠そうとしてた寂しさとか切なさがこの曲で一気に暴かれてしまった。
そうやって空っぽになった心に、あざとく入り込んでくる「香港ママ」。
理姫さんが話している背後で鳴るギターがチャイニーズでエキサイティングすぎて奥脇達也の才能えげつないなって思った。
恥ずかしがっている理姫さんを見れるのも今日が最後なのか、あーあ、なんて思いながらも、この辺りからいよいよ「笑えよ」「本気出せよ」みたいな楽曲が続くもんだから笑っちゃいました。ええもう全力で。
アカシックのライブって楽しくて、盛り上がってなんぼ、みたいなところあるのが好き。最後だとしても。
「マイラグジュアリーナイト」、「CGギャル」、「プリチー」、「華金」あたりは暴露するとあんまり記憶ないんだ。許してほしい。
フロントに立つ達也さんバンビさんがめちゃくちゃ熱くて喉千切れそうなほど叫んだり、横のおじさんに若干引かれるほど拳を掲げたことは覚えている。
未練残したくない!って気持ちのまま、最低限の理性を保ちながら暴れようと思った、はず。
「頭が空っぽな危うさで」、まさにこんな状態で正気ぶっ飛んでた。
全部楽しいんだけど、全曲色がちゃんと違うんだよね。
「マイラグジュアリーナイト」はあのMVの煌びやかな幕とトンネルの吸い込まれそうな藍色がとても似合うし、「CG」は真っ赤に燃えそうなステージライトが映える。「プリチー」の癖のある毒っ気ピンクや、「華金」の闇の中で見えなくなりそうなネオンの切なさも、音と一緒にぶわっと脳内で溢れてくる。
絵画のような、お話のような曲。それなのに、ライブを、バンドを、全力で奮い立たせる曲。
こういう美しさと熱さを同時に演奏で表現できるバンドって他にいるの?ねぇ?みたいな喧嘩上等モードで聴いてた。暴れた。
あと、他の方のレポートで思い出したけど理姫さんと康二郎が珍しく曲中に声を掛け合う場面があって。
あんまり見ないシーンな気がして、ちょっとそこだけ寂しかった。
康二郎の「暴れん坊将軍」も最後なんだよ。最後の将軍なんだよ。切ないのに楽しい。楽しいのに切ない。
「秘密のデート」はやっぱりもう康二郎の曲。
アカシックの、女の子のすべてが詰まっていて危うい魅力たっぷりの楽曲を、ここまでライブで化けさせてしまう彼の熱量と、最早聞き取らせる気のない滑舌が、本当に大好きだったんだよ。
ちなみにいちいち書いていないけど、「マイラグ」以降は笑っては泣いて、暴れては泣いて、を繰り返している。
コンサバティブの円盤で聴くのとはまるで違う曲。
バンドってこういう成長があるからちゃんとライブ行かなきゃいけないんだよ、きっと。
「アルカイックセンチメント」から、「8ミリフィルム」、「愛×Happy×クレイジー」、「LSD」の終盤はきっと涙を死因にするためのセットリスト。
私の葬式もこの順番で流してほしいから遺言残しておきたい。子孫いないけど。
「アルカイックセンチメント」って、どうしてあんなに愛おしい一体感で包んでくれるんだろうな。
映画のエンディングみたいな余韻を感じる。
こういう唯一無二のポップさを、わかりやすくしっとりしないけど実はぎゅっと切ないみたいな表現を、ずっと守り続けてくれるバンド。
それがアカシックの、他の音楽に負けない良さ。
あんまり勝ち負けとか競わせるような言葉使いたくなかったんだけど、ここばかりは使わせてほしい。
そうやって大好きだな、代わりになるバンドなんかいないな、って思ったときに聴く「8ミリフィルム」は恐ろしく素晴らしい。
「色褪せない」とはよく言ったもので、この曲はまさにそう。
理姫さんの声が本当によく合うこの曲のフェイクが、本当に心地いいの。
きっとこの曲の五線譜はとても賑やかそうなんだけど(音楽詳しくないから直感ね)、何一つ過不足がないんだよな。
ベースの密かなスラップしかり、ギターと鍵盤の目まぐるしい掛け合いしかり、歪んだドラムの入り方しかり。
やっぱり世界がアカシックを知らないまんまなんて嫌だ。
そう思ったら色んな感情と思い出がぐっちゃぐちゃに脳みそで渋滞していた。
「愛×Happy×クレイジー」は、他のライブでも書いたけど私の年輪。
素人が判断するのも変だから断言にはならないようにしたいけど、初めて聴いたときよりずっとずっと進化しているように感じた。
成長する曲、メンバーが育てた曲。そんなイメージがすっごいこの曲に詰まっているような印象を受けた。
愛と幸せと熱狂って、まさにアカシックだよね。名は体を表す。
4人の熱量も私たちの叫び声も限界に近づいたころに、「LSD」でけろりと言われる「バイバイ」が寂しかった。
「またすぐに」会えなくなるんだな、とか自分の気持ちと歌詞を重ねてしまったが最後。お別れの辛さで絞殺される胸。
その辛さを振り切るための、「好き嫌い」。
理姫さんが握りしめるリコーダー、やたらロックに成長しすぎたアレンジ、物分かりが良すぎるコール&レスポンス。
これもまたアカシックの歴史。
「平成時代のゆとり教育に育った」
「絶滅危惧種の乙女」
この歌詞がやたらと沁みた。
そうだよ、理姫さんはいつだってそんな乙女を救ってくれたよ。
達也さんが、その歌詞の為に曲を書いて、バンビさんと康二郎が、その世界を支えてきたよ。
いつだって、今だって、4人でその曲を大事に大事に奏でてきたよ。
ああ、どうやったらこの時間を止められるのかな。
アンコールで4人が出てきて、「愛しき実話」が始まった途端、あまりの美しさに息が止まりそうだった。
改めて背後のお花が、曲名が、「無情な日々」の中で生きる気持ちを歌う歌詞が、とてもアカシックらしいし、4人の門出に相応しいなと感じた。
やっぱり、時間を止めることはできない。
けど、受けとめなきゃ。4人の最大瞬間風速を。お仕舞いの美しさ、儚さを。そんな風に思いながら瞬きを我慢して聴いた。
さっきまで拳を高く掲げていたのに、急に棒立ちになって無心でステージと向き合った。
MCは、康二郎と理姫さんで対照的だった。
言葉を選びながら、謝意を伝えてくれる康二郎。
どこまでも優しい男。だけど、もう遠くに行ってしまった人のような、見えない距離を感じてしまった。どんな人間関係でもそうだけど、別れを告げる方って大体いつも吹っ切れている。
私も、この景色を忘れないよ。そう願うことしかできなかった。
一方、理姫さんは未来を見ていた。(詳しくはナタリーさんを読んでくれ)
音楽は生活のためだと思っていた。
けれど、いつの間にか音楽が生活に寄り添っていた。だから、達也とバンビを道連れにする。
短くまとめるとこんな内容。
こんなにも包み隠さず、生活のことを話してくれるバンドマンがどれほどいるのだろう。
お金のことを話せば汚いと言われるし、綺麗ごとを話せば煙たがられる。世の中ってそういう理不尽さがある。
けれど、理姫さんは全部話してくれた。
自分が生活必需品さえ買えれば良いと思っていた過去も、音楽と向き合うようになったという変化も。
お客さんがいないと困るからライブ来てね、という正直な気持ちも。
私たちは、音楽に対して、矛先を失ったやりきれない気持ちを歌詞に重ね合わせて、曲の心地よさに心酔することしかできない。
アーティストのために、直接何かすることもできない。
好きだと表明するとか、ライブに行くとか、そんなことを日々続けていくしかない。
音楽に、アーティストに救われっぱなしなのである。
そんな風に私たちをずっと救い続けてくれる音楽が、アーティスト本人にとっても生活に寄り添うものになっている。
それってなんだか、嬉しいなと純粋に思った。
私たちファンとアーティストの人生は、音楽というたった一つの交点で、お互いに幸せになっている。
そうだったらとても嬉しいな、と願った。
そして、音楽という交点から離れていく康二郎にとっても、アカシックが忘れられない思い出になればそれだけで良いと思った。
まとめらんないけど!なんか、すっごく良いなと思えたの。
そんな風に、解散の悲しさを上回る喜びを嚙みしめながらの「終電」。
「ガールズバーを抜け出してライブして適当に音楽していた」(意訳)時代の曲がこれ?はあ?ってなって良い意味で理解できない。
変な(褒めている)ダンスをする理姫さんは、リリース当時も今もずっと女の子全開で愛らしいし、演奏はずっと進化し続けている。
3人でなんとか創りあげた楽曲は、4人で磨き上げて万全の凛々しさを誇っている。
ああもう、やっぱりアカシック大好きで良かった。
わかっちゃいるんだけど、こんなに感極まったタイミングでの「サイノロジック」は本当に多幸感がみなぎってる。
80年代歌謡曲ばりの気品ある歌詞と、ライブならではの火照るような演奏が化学反応する。ポップスの女神はアカシックに宿っているよ絶対。
アカシックがほとんどのライブのセトリから「サイノロジック」を外さない(少なくとも私が参加したライブはほぼ毎回演奏していたはず)
理由は、ステージの4人を見れば一目瞭然。
音楽が、曲が、ライブが、4人が好きなんだなって骨の髄まで伝わる。
お別れのしみったれた空気なんて少しも吸わせてくれないバンド。
「最高潮」という言葉を音で表現し尽くす怪物みたいなバンド。
理姫さんという圧倒的主人公を擁しながら、4人で一つという空気を生み出すめちゃくちゃ技術の高いバンド。
(ああダメ、書いているときは泣かないようにしていたのに今ここで超泣いてる)
ダブルアンコール。
大阪でも東京でもなかった場面。
ライブ定番曲は演奏し尽くしたはずなので、何を選曲する?ということを考える。だんだん動悸が激しくなる。
うまくアンコールの声が出せない。
ステージが赤く染まる。「ロマンス」。
やっぱり、この人たちは軽々しく予想を裏切ってくれる。*1
夜と恋が重なり合う不協和音を切り取ったような歌詞の世界がとっても大好きな曲。
妖しげなのに、好きという気持ちを大胆に示すような曲。
観客全員の感情をかっさらうような曲を持ってこられて茫然自失。
やっぱりアカシックしか好きじゃない。
これまたナタリーさん読んでほしいけど、達也さんの挨拶。
「アカシックは人生と青春のすべて」
「アカシックは天に召されて成仏しました」
そして、理姫さんの挨拶。
「これにて解散!」
けじめの場面で、その人達の個性や本性ってよく出るものだとは思うけど、ここまでさっぱり清算されるとは思ってなかった。
最後はボロボロに号泣して顔中真っ黒にして帰るつもりだったのに、あまりに皆がすっきりしているものだから、笑ってしまった。
健やかで晴れやかな4人と、それをサポートしてくれた翔汰さんに最大の愛を込めて、強く、強く、掌が痛い程の拍手した。
かろうじて残った体力を振り絞ってホテルに戻ったけど、魂をライブハウスに置いてきたようで、何も考えられなかった。
ああ、私なんだか成仏していないわ。
こういうときって恋愛と同じなのね。未練がましくて重い女。
何分か経って、ベッドで横たわりながらそう感じた。私は亡霊。
新しい活動のことを予感させてくれる理姫さん直筆のフライヤーを眺めながら、成仏できそうになるまで横浜の感想は書かないでおこうと決めた。
ちゃんと成仏した人に、未練がましい私の文章を見てもらうのは心苦しいなと思ったので。
数日経った。
理姫さんのInstagramを拝見したり、他の方のライブレポを読んだりして、成仏しているかどうかその度にテストした。
平気なときもあれば、ダメだちょっと画面閉じようというときもあって、なかなかテストは成功しなかった。
でも、ふとしたときに私の頭の中にアカシックの音楽が鳴る。
季節柄、今は鶺鴒が一番よく脳裏に浮かぶ。
横浜を懐かしく感じられるのでツイニーもよく思い出す。
私の生活にも、なんだかんだアカシックが寄り添っていることに、だんだんと気づいてきた。改めて。
馬鹿みたいにキーボードをたたきつけてブログを書いた日も
アカシックの音楽で日常の嫌なこと不安なこと全部洗い流した日も
ライブでぼっちのくせに叫んで清々しい気分で帰った日も
乗りたくない列車に揺られて愛しき実話を観に行った日も
全部悔やむことのない生活で、いつ思い出したって幸せだな。
そんな風に、ちょっとだけ思えた。
なので、成仏した!ってことにします。ひとまず。
アカシック、ありがとう。
で、ここまでを数日前に書いた。
書いた途端、理姫さん、達也さん、バンビさんから次々と情報が舞い込んできた。
「可愛い連中」
このプロジェクト名だけで、軽率に泣いていた。
ああ、やっぱり私の好きな人達の選ぶ言葉だなと確信した。
理姫さんが人生を賭けてくれるならば、凛として生きる彼女の生活(ペット可)に旦那様と音楽が必要不可欠ならば、私は道連れにされます。達也さんバンビさんと共に。
やまだぁぁは辞めたはずなのに相変わらず優しいし。なんだこの野郎。
ブログなんて、私のエゴでしかない。
好きだ好きだと言いたい私のはけ口でしかない。
それでも、理姫さん達也さんバンビさんの作る音楽が、誰かに届くなら、悪者でもエゴイストでも良い。
アカシックも、可愛い連中も、いつもいつも
私の生活に寄り添っていてください。
お仕舞い
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*1:ちなみに予想は、「夢遊」「さめざめ」か、盛り上がる曲をもう1回だった
TOKYO
乗りたくもないかったるい速度の列車に揺られて、東京に向かった。
隣の親父が呑気にストロングゼロを嗜むのを斜めに見ながら、今日のライブのことを考える。
感情を整理しきれないまま、延々と続いていた田園風景が窮屈なビル街に変わり始めた。
私は頭がおかしいのかもしれない。だって、今日のライブがとても楽しみだったから。
大阪を振り返ると、あの日は悲しくて悲しくてたまらない反面、興奮が止まらなかった。
アカシックはいつも通り高い演奏技術と圧巻の楽曲ラインナップで私たちを魅せた。
次々と曲を畳み掛け堂々とする彼らに、解散という言葉は似合わなかった。
それは間違いなく私の大好きで誇らしいアカシックだった。
深く考えたくなかったのもあるんだけど、何事もなくライブを楽しみたいという気持ちを大切にしようと思った。
だから、ライブハウスの周りに乱立するラブホテルもアカシックらしい舞台装置なんだと思い込んだし、しれっと渋谷のスタバに入ったりして出来る限りの平常心を保った。
コーヒーをステージドリンクに歌う飾らない理姫さんを思い浮かべながら、極力湿っぽい気分を避けた。
開場してすぐ、ステージを見て圧倒された。
地方のライブばかり行っていた私にとって、こんなにも大きいステージでのアカシックは見たことがない。
嬉しい。けど、悔しい。
アカシックを見てくれる人がたくさんいること、解散だからたくさんの人がいること、交互にその喜びと悔しさが押し寄せる。せっかく保ってきたつもりの平常心が少しぐらついた。
暗くなって、大阪と同じSEが鳴り始めた。
広々としたステージに、白く薄い膜のようなカーテンがかけられる。ストロボ並みの、激しくて目を覆いたくなる照明が点滅する。
(ポリゴン現象と思ったりしてしまう世代)
「地獄に手を振って」。
美しい演奏は、膜の中では始まった。私たちは、シルエットが揺れる様を見つめながら、音だけがすんなりと届く時間を過ごした。
壊してはならない世界を閉じ込めたステージをただひたすら眺める、心地よい時間だった。
理姫さんの声は、熱がこもっていた。
大阪は、理姫さんのみならずメンバー全員そうだったが、熱が込み上げながらも曲の良さを素直に丁寧に伝えるような演奏だった。
それがなんだか、今日の理姫さんは少し上ずるような声をしている。
「千切れたい」
「悔いは残せない」
ライブ直前の理姫さんはそんな風にSNSに記した。
その思いが声に乗って私たちに届く。
ああ、やっぱり特別な時間なのだ。
迎えたくなかったけど、平常心でいたつもりだったけど、特別で残り僅かな時間なのだ。
有り難いといえばいいのかどうかわからないけれど、セットリストは概ね大阪と似ていた。
「エリザベスロマン」、「Mr FANCY」と続く。
心の準備ができたおかげで、涙の出演時間は少し節約することができた。少しだけね。
むしろ、新幹線で期待していたとおりに楽しくて仕方なくて、普段のライブ以上に振り絞って拳を掲げた。
なんだかバンド陣も今日はとても楽しそうで、特にバンビさんの熱がとても伝わってきた。康二郎のドラムがバンビさんを誘うようだ。
赤くて小さなサンダルの理姫さんは、踏み外して倒れてしまいそうなほど、華奢なのに弾けている。体中から溢れる勢いのままに歌っていた。達也さんの気合は初っ端から熱くて心配になるくらいだった。
心地よい「オレンジに塩コショウ」の演奏から一転、「ブラック」。
この曲はいかにもアカシックだなと聴く度に思う。
メロディーがすとんと耳に入りこむ。
達也さんは、感情の抑揚に沿うメロディー作りが上手い。インストアライブに通っていた頃より遥かに余裕綽々で弾きこなす「ブラック」は、情念の歌でありながら軽快だった。
「憂い切る身」、理姫さんの千切れたい思いは頂点に達したように感じた。
大阪よりも更に震えるような強さが、歌声に憑依していた。
この曲は何回聴いたって、擦り切れない美しさと強さと清らかさがある。
「私」で頂まで達した熱をするすると下げ、地面に這うような声色になる。達也さんのアルペジオにまで怨念が乗り移っている。
「you&i」は、お立ち台を公園のベンチのように優雅に使いながら、哀愁と優しさをそっと見せる。
理姫さんの声の変化に合わせて、バンド陣の強弱も整っていく。
感極まるような演奏なのに、誰かが出しゃばったり、バランスを崩したりすることが一切ない。
こんなに勝負できるバラードを持っているのに、相変わらずここにちょっとしたMCが入るのが彼ららしい。いるいるいる。
「幸せじゃないから死ねない」、「さめざめ」。
やはりこの曲たちは、心が乗り移るからこそ美しい。しがみついてくる魂の重さが大阪よりもずしんと感じられる。
康二郎が時折楽しそうにしている。
本当なら、こんな曲なのだから顔をしかめてほしいものだが、残りの時間康二郎には存分に「アカシック」として楽しんでほしかったから、その溢れる笑顔すら場面不相応でも嬉しかった。
聴いたときも鳥肌が止まらないと思った2曲が、大きな会場を容易く呑み込んでしまう。怪物のようなスケールを奏でる4人は、言葉より演奏で成長を見せつける。
理姫さんは、歌い終わるとニコニコしたり揺れたりと少女のようだ。
曲のスケールに負けない人、曲に乗っ取られるのではなく曲を乗っ取る人になった気がする。
「香港ママ」で、やっぱり理姫さんは照れている。
マイクスタンドにマイクをはめたはずが、踊るよりも歌いたくなったのか結局マイクを外してしまうし、はっちゃけているんだけどそわそわしている。そんな一連の姿まで愛すべき人なのだ、彼女は。
「ベイビーミソカツ」。「ツイニー」とは二つ星のような間柄。密やかな空間だった大阪の小さな箱で「ツイニー」、突き抜けるような解放感のある箱で「ミソカツ」。こういう采配のセンス、抜群。
「CGギャル」のバンビさんは<キマッて>た。
「行けバンビ」はもちろん、お立ち台はがっつり使うし、ぐるりと回るような体勢も見せるし(他の方のレポで、あれは「回し蹴り」だと読んだことがある)、相当に黒川バンビ絢太のターンだった。
けれど、いつもそのターンは、康二郎の近くに帰ってきて目配せすることでお仕舞い。ステージの故郷みたいな場所、康二郎。
4人以外の話ってどこまで書いていいのやらわからないんだけど。
男たちが「暴れん坊将軍」を区切りながら言うときにサポートキーボードの翔汰さんも参加してくれて。
実はこれをずっと思っていたんだけど、今4人に加えて翔汰さんがサポートしてくれているアカシックの温度って心地良いの。
なんかね、5人時代とはまた違うけど、一生懸命にアカシックの音を作ろうとしてくれる翔汰さんがいるアカシックが好きなの私。
真顔で真面目に支えちゃってる感じがさ。なんか愛おしい。
そんな見てる私の勝手な心地良さとリンクしたようで、めちゃくちゃ嬉しかったの。
康二郎の残された時間だからさ。4人でも翔汰さん加えた5人でも、どちらにせよ楽しいのが一番良いからそうであってほしいと願っちゃった。
そんな心地よさを背負いながらの「プリチー」の熱量はとんでもないものだった。
箱が大きくなればなるほど、バンドも化ける。曲も化ける。
このときに私は、初めて見たときに驚いたこのライブハウスをぐっと小さく感じた。
いつまでたってもキャパを超えてくるアカシックを、もっともっと誰かに知ってほしくて、弾けるようなポップの音の波の中で泣いてしまいそうだった。
そのまま掲げた拳を下ろすことなく、「華金」。
ぶん回すタオルから吹き飛んでいく繊維が紙吹雪のように宙を舞う。
この曲の吹っ切れそうで吹っ切れない悲しみが、まさに今の気分のようだ。
可憐な声の理姫さんから発される力強い煽りがライブハウスに木霊する。
大阪同様、康二郎の全力がほとばしる雄叫びを浴びながら「秘密のデート」が始まる。
人の数に比例してメンバーの振り絞る力も増していく。冗談抜きで、楽しい以外の感情が見当たらない。
会場中に嵐を巻き起こした後、メンバーが凛とした眼差しになる。「マイラグジュアリーナイト」。
あたしの生き様をさ 行け
これほどたくさんの人が、理姫さんの決意を、アカシックの覚悟を見つめる。
それは、ひとりひとりの思いのようで、4人の思いのようで。
つい、泣く危険を顧みずに康二郎のことを見つめてしまう。
ずっと気持ちよさそうに彼はドラムを叩いている。表情に陰りがない。
「アルカイックセンチメント」、4人の思いがぎゅっと一つになったようで、本当に「花束」。清々しい4人を見ていて、こちらまで誇らしい。
3人のときにここまでの曲を作り上げたんだから大丈夫、という期待。
康二郎の未来も見つめていたかったな、というやりきれなさ。
この曲を聴く度に気持ちがかき乱される。そろそろ、「予習してきたから」という保険もなくなってきた。
いつ、どこで聴いても、心臓にダイレクトに届く曲。「8ミリフィルム」。
このライブハウスにいる人のうち、何人がこの曲を入り口にしてアカシックを知ったのだろう。
どれほどの女の子が、うまくいかなかった自分の恋や、真っ直ぐステレオタイプに生きられない性格をこの曲に重ねただろう。
そんなことを脳裏に浮かべながら、理姫さんのフェイクを聴いていた。会場はまさしく一体だった。
一つになった空間にじっくり浸透するように「愛×Happy×クレイジー」が響く。
絶望だって許さないよ
にこにこと4人が奏でる姿とこのフレーズが重なる。
まだちょっと、絶望を受け入れられる自信がないけど、あんまりにも皆が楽しそうだから、いつか笑えるかなぁと信じたくなる。
さよならを言う方はいつだって晴れやかで美しい。
会場を丸ごと抱きしめるように、愛おしい最後をアカシックは迎えた。
「またすぐ会おうね」
そういってアカシックはステージから去った。
カーテンコールの最中、大阪では衝撃でほとんど聴くことができなかった「愛しき実話」を今日はちゃんと聴こうと決意した。
理姫さんの実直な言葉も、達也さんが誇らしげに作るメロディーも、そしてその世界を美しく彩ろうとするバンビさんと康二郎の演奏も、4人の形を全部味わおうと思った。
たった数分の間に、映画が終わってしまったような、密度の濃い世界が充満する。
康二郎の考えていることは、私には絶対わかりっこない。
だけど、満開の花みたいな笑顔なの。健やかな笑顔なの。この終わりを受けとめてあげなきゃ、康二郎が報われないんじゃないのかなってくらい、幸せそうなの。
折角、一つも取りこぼさず聴こうと思っていたのに、なんだか動揺してしまう。
曲の合間、康二郎は珍しく煽りでもおふざけでもない話をし始める。
東京の景色を眺めて、ぽつりとこう述べた。
「きっと一生忘れないんだろうな」
許さない。
私たちが今まさに思っていたことを、あなたから言うなんてさ。
理姫さんが「最後」って言葉を言わないようにしていたのにさ。
罪の意識のない人間がしでかした罪は重い。
一生許さない。一生忘れてやんない。
涙っぽくなりそうな空気を洗い流すように、理姫さんがとんでもない話をし始める。
「なんかさ、チョコとかクッキー投げられるようなライブってしたことないね。したかったね。」
批判されるようなライブと言いたかったのかもしれないけど、例えがあまりに可愛すぎた。平和かよ。
教えてあげたいなぁ。今日だけじゃなくて、いつもいつも、感謝の言葉しか投げるものないよ?アカシックのライブ。
楽しんでたのに、耐えてたのに。新幹線からずっともやもやしていた涙が限界突破。「終電」。
大好きだよ。自分がいなかったときの曲にも、たくさんあなたらしさを吹き込んでくれた康二郎が。
私たち女の痛みをわかってくれる理姫さんも、誰よりも自慢げにアカシックの曲を愛している達也さんも、皆をじっと見守って共に歩んでくれるバンビさんも。大好きだよ。
「サイノロジック」はメンバーがとっても自由で、もしかしたらこれが一番アカシックらしいのかもしれない。
こんなに涙がこぼれているのに、解散ってなんだっけ、そう思わせてくれる。
理姫さんが、ステージに寝そべる。
「終わりたくない」
知ってる。
私たちも終わりたくない。
ああもう愛おしいほどに優しいサービス精神の女神。
「あの曲だよね?」という暗黙の了解タイムのときに翔汰さんが本当に心配になっちゃって皆で秘密(になってない)会議始めちゃったり、何なんだこのバンド。
泣かせてくれ。笑わせるな。泣いてるし笑ってるけど。
会議のうえで始まった「好き嫌い」で、私たちはメンバーもろとも頭のネジを何本もなくして狂ってやった。
真っ黒になった目の下を隠すことも辞めて、満足な気持ちでライブハウスを出た。
今日だけ、今日だけは横浜のことは忘れてやろう。だって楽しかったんだもの。
lovelydayswithakasick.hateblo.jp
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OSAKA
日本を二つ割ったときの西に住んでいて、土日祝日勤務も当たり前で遠征が難しい私にとって、アカシックライブといえば大阪だった。
いつも通り、と意気込んでいくつもの鉄道をはしごする。
慣れたはずの御堂筋の喧騒も、なんだか居心地が悪かった。
異国の街を楽しむ人、休日のひと時を満喫する人、何が何でも居酒屋に引き込んでやろうとするキャッチ、なにがなんだかわからない道頓堀、大阪ミナミはいつも人々のパワーでぎゅうぎゅう詰めだ。
その雰囲気に私だけがまるで馴染めなくて、そういう違和感から、今日の非日常感を思い出してしまう。
奇しくも、最後にミナミに来たのは「小ぬか雨降る御堂筋」ライブの日。
あのとき、私たちは何も知らなかった。彼らの結末がもう間近に迫っていることも、これから襲いかかる未来への不安も。
ただひたすら、大好きなアカシックが持ち曲63曲を2日でやりきる無謀さについていくことが嬉しかった。
あの日、秋には円盤を出したいねなんて笑いながら話す4人から異変を感じ取れた人はいたんだろうか。私には無理だった。
人も店もごった返す心斎橋筋商店街を抜け出し、治安の決して良くなさそうな狭い街を歩いた。競馬場とライブハウスが同じビルにまとめまっているが、これこそ何でもありな大阪っぽい。
中に入ると、ファンの様子がいつもと違う。
初めて来たのという声、これがお仕舞いだなんて嫌だという嘆き、肩と肩がすぐぶつかる距離で、皆がそれぞれの「アカシック推し歴」を話している。
ぼっちなので、聴覚の性能を一時的に悪くしようとしても多少のお話は否が応でも聞こえてしまう。
まだ聞きたくないのよ、こういう湿っぽい話。嫌だ嫌だ嫌だ。実感したくない。
往生際の悪い自分を呼び起こさないように、努めて冷静に開演を待っていた。
つもりだった。
けたたましいSEが鳴り響く。
「終電」、「ギャングスタ」、アカシックの歌をところどころに散りばめて、閃光のように音が飛び散る。
集大成でありながら、お涙頂戴な雰囲気はどこにもない。むしろ、かかってきなよと煽る気配さえある。何が起こるかわからない空気が張り詰めて、動悸が激しくなる。
やられた。開演直後、心の第一声。
「地獄に手を振って」始まりは全く想像してなかった。なんとなくだけど、とんでもなく明るくかっ飛ばす気がしていた。
心にできた油断の隙から、康二郎の優しいコーラスがするすると入ってくる。理姫さんの甘くて鋭さのある声を潰さない、優しくてそっと包み込むような声。
あ、これ無理。康二郎居なきゃ無理だ私。
「優しい絵本の中で」と言うように、アカシックの世界は美しい彩りで溢れている。感傷的な気持ちだって、やさぐれた生活だって、理姫さんはいとも簡単に艶やかに染め上げてしまう。
今日だって、絵画の中から抜け出してきたような絢爛なドレスを身にまとって、紅いリップがステージライトによく映えている。
私たちが、鏡を見る度に憧れる女の子がそのまま目の前にいるのだ。そんな理姫さんだから、刹那に私たちの心を攫いにくる。
この世界を、壊さずに守ることができる人。優しく支えながら、寄り添いながら、自分の色を足すことができる人。
そんな人たちが、そう頻繁に現れるはずなんてないじゃない。
そうか、そういう作戦か。
康二郎の優しさがひしひしと感じられる曲で幕を開けて私たちを生殺しにする気か。
狡い。無理。どうやってこの解散を受け入れろって言うのさ。
たった一曲なのに、もう頭の中が色んな思いで飽和状態。
そんなパンク寸前の脳みそに、果たし状を突きつけてくる「エリザベスロマン」。
あるとき以降の理姫さんの作品には、生きていく強かさが見える。
かつての愛に依存して心許ない雰囲気から、いつのまにか孤独や絶望感を許さない眼差しが強くなる。
その眼差しの奥に、私たちファンを巻き込んで、一緒に生きていこうよ、やってらんないときもあるけど楽しいよ何だかんだ、と言わんばかりの潔さが感じられる。
この曲は、そういう強かを余すことなく表しながら、気品だったり、余裕だったり、女の矜持だったりを全部音で五線譜の上に落とし込んでいる。
まさに、作詞理姫、作曲奥脇達也の真骨頂。
かと思えば、同じように生きていることの幸せを噛み締めながらも、その裏で一緒に幸せになることは叶えてくれなかった男の影がちらつく曲、「Mr. FANCY」が続く。
理姫さんの根底にあるのはいつも、女として幸せになりたいじゃんそれの何が悪いの、という飾り気のない本心。
こういうナマの気持ちをさらけ出してくれるから、私たちが日々苦悩する叫びを言い当ててくれるから、でも生きてたいし生きててほしいし、と歌う言葉にも温度が込み上げてくる。
康二郎のドラムが、歌詞の感情の抑揚に重なるようにとても熱くなる。目配せをするバンビにも、鬼気迫るオーラが見える。鍵盤の音が、衝突の衝撃を和らげるようにそっと添えられる。
これがアカシックだ。
私が大好きで、もっともっと皆に知ってほしかったアカシックだ。
とりあえず初日大阪はこの3曲で記憶のストレージがほとんどとられた。
後は、ずーっと曲の持つパワーに圧倒され続けた気がする。だから、ライブを見てメンバー本人の様子を見たり全体を観察したりできなくて、それよりは、曲の持つ力を噛み締めながら聞くのに精一杯だった。
「オレンジに塩コショウ」、「スーパーサマーライン」と変化球打ってくるのがこれまたアカシックらしさ。
なんかもう、めちゃくちゃ本人たちが楽しそうだし、今10月なのに余裕で夏の危なっかしさ伝わってくるし。
ねえ、本当に解散するの?って一瞬ここで怯む。
怯んだ隙に、「憂い切る身」。
骨とか神経にまで音が入り込むような気がして、泣きながら、感電したような錯覚。
ふと見渡せば、周りの色んな人が涙を流していて、この曲の持つ意味が今私たちにのし掛かっていることを痛感。
「幸せだったこと 自慢したい最期は」
愛しき実話。
解散とラストライブツアーが発表されたときに思ったけど、アカシックはもしかしたら2019年10月26日に解散することが決まってたのかもしれない。
どっかの神様の悪戯で。
この曲だって、そんな動かせない結末のために用意された伏線なのかもしれない。
だって、それくらい綺麗なんだもの。
悔いを見せずに笑い、軽やかにドラムを叩き続ける康二郎の眼。
表に出ないようで、実はとてもよく出ているバンビの熱。
コーラスしない曲でも歌い続けて、バンドを愛していることがバレバレの達也さん。
目線で、声の張り上げ方で、全ての感情を乗せてくる理姫さん。
この曲も、この4人も、全ては最後の日のために設えたような気がする。
私たちは、あと20日間しか残されていない時間をどうやって過ごすか、ただ考えることしかできない。
時限爆弾みたいだな。曲に飲み込まれる陰で、そんなことをぼんやり思ってた。
泥を啜るような陰湿さを醸す「私」、幻想的な月明かりみたいな儚さが理姫さんに宿る「you&i」、とんでもない高低差でライブは進む。
いつも思うけどアカシックのライブに退屈とか飽きとか存在しない。
何故か潤滑に展開する奥脇達也のお料理教室(アサリの味噌汁編)で、観衆にこれはなんの集まりだったのかを忘れさせ、錯乱させた直後にちぐはぐのテンションで告げるタイトルコール、「幸せじゃないから死ねない」。始終理姫さんが可愛い。
以降、「さめざめ」まで、メンバー全員箍が外れたように曲の世界に没入する。こんなに熱い「さめざめ」は聞いたことあったっけ。
もうお料理教室の先生はどこにもいない。多分鰹出汁取るために舞台裏に帰った。
康二郎のドラムは、力強くて熱量があるときも軽快で心地よい。曲の速度や空気を損ねない。気づけば高鳴る心臓のように、歌詞と丁寧に足並みを揃える。
こういう曲が畳み掛けてくるときに強くそれを実感する。
ここからは、本当にもう、湿っぽいこっちが馬鹿みたいにメンバーが楽しんでる。
なのに、演奏に寸分の狂いもなくて、ライブハウスはお祭り騒ぎなのに私たちはアカシックの掌のうえで転がされている。
どうしてここまでできる技術があって、悲しいお知らせを受け入れなくちゃならないんだろうな。思い出している今のほうが憂鬱。
照れながら踊る「香港ママ」の理姫さんが、あまりにも愛らしい。
もっともっと照れてほしくて、煽りたくて年甲斐もなく全力で踊る。
「CGギャル」のバンビさんは、わかっていながらもとんでもないオーラを放つから痺れる。あのマネキンみたいな顔でこんな狂気が似合うのはもはや脅威。悲鳴が上がるのも当然。
悔しい。悔しくて仕方ない。けど、楽しい。
アカシックのライブっていっつもこうなの。
毎日のやってらんないこととか、うまく可愛くなれない自分とか、色んなこと抱えて持っていっても全部蹴とばしてくれるの。
いつまでもずっと、こんなライブに通いたいよ。
「秘密のデート」の狂喜乱舞は相変わらず麻薬。
康二郎の掛け声は、むしろコンサバティブの音源から入っていたんじゃないかってくらい自然。彼は、途中で入ったはずなのに、初めから求められていた人だったのかな。これ自分で言って泣きそう。
これまでの狂喜が、「マイラグジュアリーナイト」で背筋の通る強さに変わる。
「ツイニーヨコハマ」のヒヤリとする危なさが、会場の熱と溶けて混じっていくようで気持ちいい。とてもライブ映えする曲。
タイムマシンみたい。
アカシックがずっと表現し続けてくれた世界を、一度に丸ごと見せてもらえるような。
アカシックの教科書を書くならこの曲がいるだろ!という曲の目白押し。
楽しいのに、そんなことで解散の文字が過る。やだやだやだ。
楽しい気持ちの裏で育つ切なさに気づいたそのとき、「アルカイックセンチメント」。そして、「愛×Happy×クレイジー」。
「アルカイックセンチメント」はこっそりバンビさんもコーラスに混じる。
私はそれが好き。皆で作ってるよ、という態度が見える気がする。
理姫さんが目立ってしまうバンドだけど、4人の「個」が阻害し合わずに上手に中和するのがアカシックの音楽。それが大好き。
「愛×Happy×クレイジー」は、私がライブに通い始めてから歌い始めた曲。
初めは、音源の演奏の豪華さに戸惑って、ちょっと他の曲と違う色だなと思っていた。なのに、だんだんとアカシックのライブの中で馴染んでいって、アカシックらしくなっていって、いつの間にか無くてはならないピースになっていた。
ぼっちに引け目もあったけど、アカシックが大好きすぎてライブに通い始めた私の年輪がこの曲に刻まれてるんだなって今更わかった。
「好き嫌い」。
「年貢を廃止して地価の3%を現金で納める」政策である例のフレーズ、誰がここまでライブのフィナーレに合うロックな曲に化けると思っただろう。
たった5年で彼らはとんでもない進化をしたんだろうな。
「LSD」。
「あと2秒でなくなっちゃうよ」
理姫さん、ねぇ。いつから知ってたの?お別れのこと。どうしてさよならの準備が整っているの?
偶然なんて嫌い。明るい曲を真っ直ぐに聴けなかった。
ステージから順番にメンバーが捌ける。
理姫さんが、幕から顔を出して一言。
「先にシャワー浴びてくるね」
そう言って彼女は消えていった。
主人公なんだな、と思った。
生き方も、些細な言葉遣いも、ステージでの立ち振る舞いも、何もかも。
たった一言にどきりとして、心を掴まれた。
長いアンコールの掛け声が止んだ。
即座にめまいがした。
「愛しき実話」
解散を告げるよりも先にできた未発表作品、それになぜこの名がついたか。
因果なのか。偶然なのか。
主人公である理姫さんに科せられた使命なのか。
注ぎ込まれるメロディが、私の大好きなアカシックらしさであふれていた。
理姫さんが日々を大切にしようとする心がけが、ところどころ聞き取れる歌詞の断片から伝わってきた。
大好きな人たちが大好きな歌を歌う。
たったそれだけで、私の気持ちには名前の違う感情がいくつもひしめき合う。
演奏の直後、康二郎が普段以上に笑う。
「なんかすっごい楽しくてさ」
どうして、今それを言うのだろう。なんて罪な人なんだろう。
別れ話の日くらいは、嫌われる男であってほしい。なのに、この人は相変わらず憎めない男なのだ。音楽を楽しむことを忘れない、真摯な人なのだ。ズルイ男。
ギターはその涙ぐましい空気をかき切ろうとする。
「終電」。鋭い音の襲撃も虚しく、涙はより量を増してしまう。
ああ、アカシックの歴史は、私が見てきたよりもずっとずっと重くて、ずっとずっと尊くて、どこを切り取っても密度が高い年月なんだ。
走馬灯のように、なんてよくいうけど、本当にこのときは、全ての曲を聴いたときの全てのときめきが同時に胸に再来したような気分に酔った。
泣いては酔って、体調が悪いんじゃないか私と勘違いするくらいには目の前がグラグラしていた。
こんなにも人のことを泣かせておいて、あっけらかんとアカシックは宣言する。
「最高潮だと伝えたい、サイノロジック」
そこにいたのは、いつものアカシックだった。もうすぐ、「いつもの」とは言えなくなるけど。
帰りの電車の中、私は何を考えたら良いのかわからなくなった。
lovelydayswithakasick.hateblo.jp
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鍵付きドル箱のままでいい
何の話か申しますと。
愛しき実話まで残り1週間切ったしそろそろお話ししておきますね。
私、ライブではどなたにもご挨拶しません。
ご理解いただけたら嬉しいです。
既に何名かの方にそのお話をしたり、実名公表や顔出しを伴う企画への参加はできない旨をお伝えしたりしています。
考えてみてください、皆さま。
私のブログやTwitterはもう自由帳であり日記帳であり赤裸々にも程がありますの。
もう本当は誰にも見せない鍵垢に閉じこもるべきだろうというくらい、好き勝手してますの。暴れてますの。さらけ出してますの。
ここに、自分の名前や顔を知られてしまうという羞恥プレイは流石に加えられない。コメント欄をブログに設けていないのもそのため。陰気、弱気、損気。
本当はずーっとそのつもりで最初からブログ作りました。現場友達なんて諦めました。元々ぼっち参戦だから良いんですけど。
じゃなきゃ本名に縁もゆかりもない謎のアカウント名もつけないし、ブログに〈好きにさせてよ。〉なんて偉そうなタイトルもつけない。
あと、ちょっとだけ綺麗なこと言うと、誰の影も落としたくなかった。好きなもののお話の中に。
この感想はサラリーマンが書いているのか、あるいは2児の母親が書いているのか、それともニートが親のすねかじりながら書いているのか、なんかわかっちゃうと興ざめしませんか?
「こういう立場の人だからこんな想いになるんだな」と感じてしまうと、その立場じゃない人はなんだか疎外感がありませんか?
よって、自分にも読んでいただく側にもなんのメリットもねえな!と思っているので、私はいつまでもネット弁慶してます。
10月5日、15日、26日は気持ちだけウェブ上で共有させてくださいませ。
あと、実名公表も顔出しも無理!ということで企画などを考えてくださっている方々には無理をお願いしたりして多大なご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした。
華々しい最後を飾るために、コジさんに最高のお別れをするために、素晴らしい企画となりますよう心からお祈り申し上げます。
追伸
直接お話はできないので、Twitterでも密かに動かしてるインスタでもマシュマロでもなんでも他のツールで話しかけてくださいね。
月野にこ
さよならいつかとは未だ言えなくてー「大切なお知らせ」に直面した女の話ー
「なんでこんなに良いのに解散するんだろうね」
家族の言葉は、素でいられる間柄な分、不必要な遠慮とか気遣いとか落っこちていたりする。
だから、他の人に言われる言葉に比べて随分と鋭利で容赦なく聞こえたりもする。
事の顛末は、私が8月7日の夕食後に腰が抜けて数分動けなくなる事態から始まった。
「大切なお知らせ」という言葉が、Twitterの白い画面から浮かび上がってくるように見えた。
この類の悲報に絶望を覚える程アーティストを好きになったのは初めてだけれども、その「お知らせ」が何を知らせるために届いたのかくらいは、読まずとも察した。
思っていたよりも、あっけらかんとした「お知らせ」だった。
脱退したいと申し出たドラムの山田康二郎さんは、いつも通りかそれ以上に皆のことを気遣いながら言葉を選び、それでいて下手な嘘はついたりしない真面目な人だった。
また、その脱退の意志を聞いて「4人じゃないなら解散しようよ」と即座に判断したことを私たちファンに伝えるフロントマン理姫さんの言葉も、これまたいつも通り率直で、動かないスマホ画面の文字の筈なのに直接声を発して話しかけられているような錯覚に陥った。
それでも、じわじわと私の中に実感がこみ上げてきた。
「解散」「脱退」、この言葉だけでも絶命しそうな重さの言葉なのに、発表されたラストライブはたった2か月と少し先の10月26日。
そんな時間が短いことは、私にはよくわかっている。
今年の2月19日、私はちょっとありのままの心情過ぎて恥ずかしいブログ記事を書いた。
大好きなバンド、#アカシック
— 月野にこ (@tsukino_25) February 19, 2019
について好き勝手書いてみました。気持ちは題名のとおり。#はてなブログ に投稿しました
オタクが声を張り上げる ―アカシックを知ってくれ― - #好きにさせてよ。 https://t.co/39hmL9UCNJ #はてなブログ
ハリのない人生に艶やかな彩りをくれたこと、やってられなくて突っ伏しそうな夜に寄り添ってくれたこと、心臓に真っすぐ届くような胸が昂る演奏を創り出してくれたこと、何もかもが私にとって代えがたい幸福だった。
このバンドしかついていきたくないな、言葉にすると何だか青臭いけど、本当にそう思っていた。
だから、その気持ちをそのまま言葉にしてインターネットの海に放流してみた。ちょっとやけくそだった。
気づけば、趣味用に新たに作ったアカウントでのつぶやきは100いいねを超えていた。
よくいう「バズった」には到底達していない数だけど、誰にも何も言えないまま、アカシックのことを世間が知らずに時が流れていくことにひとり悶々としていた私にとっては信じられない反応だった。
その日から、私はずっとアカシックのことをブログに書き続けた。
アルバムごとに収録曲の話をして、他アーティストに提供した曲も書いて、縦断的な楽曲紹介は書いたからいよいよテーマごとの横断的な記事に移行しようと企てていた。
SNSやライブのMCでアカシックのメンバー本人たちから「20曲くらい未収録曲がある」「秋にアルバムを出したい」という話もあったので、きっとまた恐ろしく良い楽曲がこれでもかという程に押し込まれて、私の語彙力の貧しさに苦しむ日々がやってくるのだなと嬉しい苦悩もしていた。
個人の趣味ブログのくせに苦悩しているのがあほらしいにも程がある。
奇しくも、その日もブログを書いていた。私がブログを始めて半年が経っていたことに、更新日を見て気づいた。
その更新のたった2時間後、「大切なお知らせ」は襲来した。
私が語彙力の欠如や拡散力の未熟さに悲観し、それでもなんとか文字を起こし続けた半年は、本当にあっという間だった。
そうやって時の過ぎ去る速度をいつも以上に意識していた私だからこそ、2か月後の解散がどれほど早くやってきてしまうのか、悔しいことに容易く予想がつく。
嬉々としてブログなんて更新しちゃって、馬鹿みたい。
数時間前の自分をあざ笑うくらいしかできないみっともない私は、必死でTwitterの情報の波を観測した。
冷静に「お疲れ様でした」と締めくくる人、「まだライブに行ったことないのに」「あの曲が好きなのに」と好きの入り口付近で戸惑う人、「あのバンドも解散したのに続くな」と一つの出来事としてとらえている人、そして私のように困惑を隠せない人、いろんな人たちがそれぞれの思いを打ち込んでいた。
その様子を要約することは難しいけれど、普段とは違うタイムラインの速度やツイートの多さに非常事態の気配は出ていた。
それだけで、実感を生み出すには充分だった。
リアルタイムで刻まれる人々の反応を食い入るように見続けた。現実味はどんどん増した。
気づけば、床に腰を下ろしてからしばらく経っていたらしい。
私の趣味に対して日頃関心のない家族すら、夕食の食器が残ったままのテーブルよりも低い位置でスマホを手放せず落胆の表情を浮かべる私に、何らかの異変が起きていることは察知したらしい。
びっくりするくらい乾ききった口を無理やりこじ開けるように開いて、私は「アカシックが解散する」と家族に告げた。
その後の記憶は曖昧で、とりあえず家族に泣きごとを散々言っていたような気がする。
その数日後、家族と私がとりとめのない雑談の流れで音楽の話をしているときに、家族がアカシックの話をそれとなく聞いてきた。
解散するから優しくしてやろうとかそういう打算的な雰囲気ではなく、単純に興味がわいたような雰囲気だった。
私は、(こういうあまりに赤裸々なブログをしていることを見破られたくないのもあって)ゆっくりと、断片的に、アカシックの何が好きか話した。音楽的な知識が私なんかより更にない家族なので、話すことができる部分はごくわずかであったけれど。
ここで、冒頭の発言にやっとたどり着く。
家族の反応は意外だった。
そんなに好きなんだねとか、残念だねとか、私の気持ちの深さの方に寄り添うのだろうと思っていたからだ。
アカシックの良さが、愛すべきところが、素人の拙い説明でも他の誰かに伝わった。
「嬉しい」と「悔しい」が同時に全力で押し寄せてくるような気持ちになって、その夜はゆっくり眠れなかった。
鍵のついたフォロワーのいないアカウントからメンバーのSNSを見て、時々ライブや新譜の感想をどうしても伝えたくなったときに、鍵を外してリプをする。
そんな日々に、とりあえず納得していた。
だけど、アカシックが好きなんですとはなんとなく公言できなかった。
周りにアカシックのことを知っている人はほとんどいなかったし、ひとり後方から見る観客の後ろ姿にも「あの子見たことあるな」と思うことが多かった。
もっと「不特定多数のファンの誰か」になりたかった私は、静かにライブを見て、静かに帰る癖を覚えた。
行けるライブに最大限行くこと、CDを買うこと、それとこっそりLINEのプロフィールにアカシックの曲を設定することくらいの、密やかな応援の仕方だった。
声を出せない応援は、しんどくてしんどくて仕方なかった。
簡単に売れる方法なんてあれば解散を回避できたバンドは山ほどあったはずだし、いつも評価と功績の釣り合いがとれている訳じゃないことは私たちも日常生活の中で感じている。
それでも、この音楽に対してこの知名度が妥当な結果だとは絶対に思えない。
こんなに緻密に紡がれた女の子の気持ち丸ごと取り出したような歌詞も、心臓を素手でつかみに来るような曲も、他のアーティストと比べることもできないくらいに好きなのに、どうして、この人達は限られた世界で閉じこもっているんだろう。
悔しかった。世界に叫んでやりたかった。見過ごすなよって。見つけてよって。
「これが一途か 気が狂いそうだ」
憂い切る身という曲の一節を、繰り返し思い浮かべた。
本当は今だって悔しい。
なんで、解散ライブになってから急にチケットが転売されてんのさ。
初めて買ったライブのチケットの整理番号は先行でもなんでもなく一般で買って二桁番だった。
解散ライブは、最速先行のチケットをなんとか手に入れてそれでも1000人の後ろから数えた方が早い番号だ。
私はアカシックを観に行くんであって、お金を出して人の後頭部を観に行くんじゃないってもっと明るい気持ちで笑いたかった。
人に話したら笑われるんだろうな。
時々鍵を外すTwitterの140字におさめることなんてできないくらいに愛が膨張してしまったこと。
この気持ちを手紙にしたらどえらい重い女になりそうなくらい好きすぎること。
本気でアカシックのことを世の中に知ってほしいなんて思って勢いでブログを作ったこと。
薄っぺらい脳内辞書と感受性しか持たない私のこれまでの人生の不勉強っぷりを死ぬほど恨んでいること。
こんな下手くそな文章しか書けない私がブログなんか始めてしまったという後ろめたさがいつまでも消えないこと。
5年前のデビューのときにどうしてこの人達と私は巡り合わなかったんだろうと、ずっと成長を追いかけている古株の人達への羨望を勝手に抱えて自己嫌悪に陥っていること。
きっと私みたいに、他のアーティストをしばらく聞けなくなるくらいハマってくれる人が世の中にまだまだ埋もれていると信じていること。
ほとんどが恋愛の曲なのに、何の関係もない仕事の辛さを紛らわせたくてアカシックを延々シャッフル再生したこと。
結局そのときの仕事は辞めてしまったけど、あの頃の恩返しのような気持ちで本音をキーボードにたたきつけていること。
こんな人生を選びたかった、こんな女性として生きていたいと狂ったように願っていること。
「理姫さんにちょっと似てる」なんて話を人から聞いたことをきっかけにこっそり検索したそのアイドルにまでハマったことと、もしかしたら私と逆のルートでアカシックを見つける人がいるかもしれないと思ってブログに他のアーティストやアイドルの話も書いていること。
(そっち界隈の方から私を知っている方、ごめんなさい。邪なのは最初だけだよ。)
実はバンド名を見たり、ラストライブのための宿泊予約をしたりするだけですぐに涙が出てくること。
世界を変えたかったこと。
馬鹿でしょ?
自分でも笑っちゃうもん。
でも、私の世界を変えたのはアカシックだもん。
この愛情も、リツイートのようにどんどん拡散していかないかなって願っただけだもん。
だから140字の世界から、もっともっと広げようと思った。
そんなこと、あのとき家族にも言えなかったな。
それでも、笑わないでいてほしいの。
アカシックは解散してしまっても、好きでいて良かったとファンが確かな誇りを持てる程に良いバンドだということ。
新しい未来に向かう山田康二郎さんの決意も、形を変えて進もうとする他の3人の覚悟も、どっちも尊重していること。
きっと3人はこれまで以上に素敵な音楽を作るのだろうと勝手に未来に太鼓判を押していること。
それくらい、理姫さんの言葉に、声に、奥脇達也さんの作る曲に、ギターに、二人を支えるバンビさんのベースと山田康二郎さんのドラムに、とてつもない力があること。
だけど、まだちょっとアカシックの音楽を誰かに聞いてもらうために現状にしがみついていたいこと。
アカシックの解散は、私の人生のパズルのピースを1つ失うくらい取り返しがつかないことかもしれないだと怯えていること。
それでも、好きで好きで仕方ないというこの心情を、できるだけ隠さずに書き留めたいこと。
ライブ会場やSNSが愛で溢れることによって、メンバー皆がアカシックとしての活動に何の後悔もなく終止符を打てるようにしたいと願っていること。
ラストライブに「愛しき実話」なんて名前をつける彼らが、あまりにいつも通り過ぎてまだ好きの感情が増えていっていること。
サヨナラは当分先でいいと願っていること。
できるだけ多くの人に、最後だけでも熱い感情をほとばしらせるアカシックのライブを見てほしいこと。
こんなタイミングだけど、まだ今からでもたくさんの人に見つかってほしいなと考えていること。
解散、活動休止、悲しい知らせを届けるバンドがひっきりなしに現れる。
音楽の道とは獣道なのだと、その悲しさを片付けることは簡単なのかもしれない。
けれど、たくさんの悲しむ人たちがいることも、彼らの音楽活動による功績に入れてほしい。
少なくとも私たちは、バンドの規模や知名度にかかわらず、彼らの音楽に救われているのだから。
もし、こんな書き殴りの文章を読んでくれている人がいるなら、あなたが推している人達、応援している人たちに、惜しみなく愛を届けてください。
最大限ライブに行くとか、それが難しくてもどうにかこうにか愛を伝えるとか、とにかく聞きまくるとか、方法はいくつかあると思う。後悔しないでね。どんなことにも最後は来るから。
10月26日まで日にちが迫ってきて、最後の日に吹く横浜の風はきっとしょっぱいんだろうなと感慨深くなったので書きました。
少しずつ、前を向くために足掻きます。
これが限界です。私はアカシックがずっと好きです。(「好きにさせてよ。」転載)
※楽曲紹介でもなんでもない記事なのでお引越しすることにしました。
2019年8月7日時点での私の心情です。
アカシック解散の悲報を受けて、とりあえず。タイムラインだと荒らすからね。
寝れないんです。気づけば携帯に書き殴っていた。推敲がないとか、読みにくいとか、ごめんなさいね。アカシックが好きだなぁまだ夢だなぁ、くらいしか考えられないんですよ。あー哀れ。
いつ好きになったなぁとか、このライブのときこんな気持ちだったなぁとか、今までありがとうこれからもよろしくコジさんお疲れ様です、そういう体験を、記憶を、体感を、謝意や激励を、まだちゃんと言語化したくありません。
心の中にもやもやしているものを言語で思い出に変換した途端、呆気なく過去という世界に閉じこもってしまいそうだなと考えているからです。
呆然としていて、他人に当たり散らして泣きました。結婚まで考えた人が急に別れを告げてきたとき、こんな気持ちなのかなとしょうもないことをふと思いました。なんかそれくらい、当たり前の中に生活に染み込んでいた音が、心が、ぽっかり空虚になりました。今はただ、それだけです。
それだけなのですが、少しお断りがあります。今日もまさしくそうなのですが、今のところブログを更新したり、ブログそのものを消滅させたり、ということは考えていません。
アカシックの音は、言葉は、何も変わらないはずなのに、その曲と歌詞に対して私が対応を変えるのは裏切りみたいなものだなって考えているからです。
アカシックはずっとかっこいいの。私はずっと好きなの、それだけなの。
なので、たとえばアカシックという言葉を入れてツイートしたり、何かアカシックの楽曲について言及するブログを書いたり、そういうことは続けます。今も、解散後も、新しい活動の形が見えても。
そもそも、ぶっちゃけこのブログはご本人様たちにとって不愉快ではないのか?とか、何の影響力も持たない私がなにを喚いているの?とか、たくさん悩みながら書いていました。なんとなく取り返せない場所にいただけで、本当はずっと不安でした。
ただ、こんなブログでも、「私もアカシック好きなんです」と言ってくださる、同じ想いを共有できる人がいることを知れて、胸がいっぱいなんです。
ほら、そうでしょ?アカシックいいでしょ?って言えたとき、本当に幸せだったんです。悪いのは時代だってずっと思っていたんで、気づけ気づけ気づけーってずっとあがいてた。
だから、ブログは残します。続けます。バカにしててよ。頭の悪い女が往生際悪くわめいてるって。知ってるよそんなこと。
私は、アカシック解散後も、まだ世の中の人がアカシックの音楽を知って好きになってくれる可能性を信じてます。だって、本当に良い曲ばかりですから。そんな未来のために、私たちに決意を教えてくれたアカシックのために、こんな文字でも残そうと思います。そう思うとデータで音楽買ったり動画見れたりする現代っていいよ。まだ、世界の人はアカシックに出会えるんだもの。後悔したらいいわ、解散後かよーうわーって。
あと、私なんかの文ではやっぱり良さというか、あの素晴らしいバンドの強烈な魅力って世の中には届かないといつも歯がゆくて悔しいので、みなさんもたくさんの愛を世界に投げつけてください。ツイッターでもインスタでも女子会でもなんでもいいじゃんどこだって。
絶対私より先に好きになった人とか、現場たくさん行っている人とか、たくさん言葉を、語彙を、表現をお持ちの方がいると信じてます。私は平々凡々なただの一ファンです。
まだ、アカシックは終わってないから、諦めず、好きだよ、こんなところがすごいよ、かっこいいよ、って皆んなでおっきい声で言い続けることは無駄じゃないと思います。
それも私の思い込みかもしれないけど。思い込みだったら笑ってよ皆。
まあ、つまるところ私のツイートやブログを見ると解散のことを考えてしまって辛いという方、お前アカシックの話ばっかりうるさいんだよという方はフォロー外すなりミュートするなり読者解除するなりなんなりしてください。
本当、なにができるんでしょうね。10月26日までに。辛いです、それだけです。
浮かれて高校野球見ながらプレイリスト作って小泉進次郎と滝川クリステルの結婚に騒いでた時間帯くらいに戻って止まりたいです。終わり。
この気持ちは変わりません。
理姫さん、達也さん、バンビさん、コジさん
お名前出していいか悩んだけど、Hachiさん
ずっと好きでずっと尊敬しています。